「主の義」と「主の愛」
聖書は創造主が宇宙を創造し、人を神のかたちに造られたと記しています。初めに主が天と地を造られたとき、宇宙の創造の秩序は創世記1章に見られるように極めて完璧でありました。
しかし、人間が神の命令に従わず堕落した後、人間の良心は麻痺し、知性は方向性を失い、神と離別し、創造当初の完璧な秩序は崩壊しました。すべての人が罪を犯し(ローマの信徒への手紙3章23節)、永遠の死を招きました。
しかし、主は愛をもって人の罪の代価を支払うことを決断されました。主は再びこの世を神中心の永遠なものを追求する世界にしたいと望んでおられたからです。
「主の義」は罪を黙認したり、罪の代価を支払わずに赦すことを許さないが、「主の愛」はすべての人の罪が赦されることを望んでおられました。しかし、「主の義」を満たすための罪の刑罰は死であり、死から救われるための代価を自分で支払える人は、一人もいません。なぜなら人は、最初から罪人として生まれてくるからであります。死刑囚が別の死刑囚の身代りとなって死刑を受けることはできません。だから罪の代価を支払えるのは、罪のない完全な人だけであります。
そこでイエスは、聖霊によって処女マリアに宿られ、罪のない完全な人としてお生まれになったのであります。罪に汚れていない完全な人間、つまり、主ご自身が人として来なければ、人間の罪の刑罰を身代りに受ける条件が満たされないのであります。イエスは、人間の罪を赦し、人を死から救い出すために、人となられたのであります。