~聖書の教える信仰と国家との関係~
旧約聖書の有名な人物であるモーセという人は、自分の民であるイスラエル人を、誰よりも愛した人物でした。彼は数百万人のイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出した人です。
出エジプト記32章32節で
「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
と祈りました。
しかし彼が召される前には、まさにその愛国心のゆえに不本意ながらも人を殺してしまった話が聖書には記されています。そのため彼は殺人者として追われ、荒野で40年間さまよわなければなりませんでした。
新約聖書の有名な人物であるパウロも自分の民を熱く愛した人でした。兄弟や親戚のために、自分が呪われてもかまわないと祈るほどでした。
しかし、自国の民を愛する篤き思いと、信仰の深さとは関係ありません。むしろ、主を信じる信仰こそが、国に対する篤き思いを生み出すのです。聖書の教える信仰によってこそ、自分の命をささげても自国を救おうとする情熱を持たせるのです。
残念ながら、かつての大日本帝国は逆のことを教えていました。天皇という神的存在を前に立てて、国における忠誠を高揚したのです。しかし、国のために信仰が存在するのではありません。
今月の聖書の御言葉である箴言14章34節はこう教えます。
「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる」
主なる神様の正義が、私たちの上にありますようにお祈りします。