2014年6月7日(土)、下関市民会館において、梅光学院下関開学100年記念式典が行われました。ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。
式典の中で学院長の中野新治がお話した内容をご紹介します。
信仰・希望・愛
-命と魂を養う学院であり続けるために-
本日、ここに、学内外からお集まりいただいた多くの方々と共に、梅光学院下関開学百年の記念礼拝を持つことができましたことを、心より感謝申し上げます。
記念とは「心に記して忘れぬ」ということであり、本日ここにお集まりいただいたお一人お一人の心の中に、特に若い生徒、学生の皆さんの魂の中に、開学百年の節目の年に在学したという経験がしっかりと刻み込まれ、生涯を通じての魂の養いとなり、生きる力となることを心より願うものであります。
さて、改めて申し上げるまでもなく、歴史とは単に記憶にとどめ懐かしむために存在するのではなく、今、ここに生き、生活している私たち一人一人が、将来に向かってよりよく生きるための「心の糧」「生の指針」として存在しているものであります。歴史が一枚の鏡であるとするなら、それは過去ではなく、未来を映すものでなくてはならないのです。では、今、新しい百年に向かって歩み始めようとしている私たちは、梅光学院百年の歴史から何を学び、どのような未来像をそこから描くべきなのでしょうか。
私は、二人の先人の苦難を偲ぶことを中心に、それを試みてみたいと思います。
一人は、申し上げるまでもなく、広津藤吉初代学院長であります。広津先生は1914年の開学時から1945年の終戦の年までの32年、さらに、戦後の2年と、34年の長きにわたって学院長の任にあり、学院の礎を不動のものとされました。昨年10月に記念事業の一つとして、下関大丸で写真展が催され、2,000名を超える参加者がありましたが、その写真の中にチマチョゴリを着た韓国からの生徒の姿があったことを心に留めた方も多かったと思います。台湾や中国、韓国からの留学生が戦前から梅光で学んでいたこと一つとっても、先生の学校運営における広く深い国際的視野がしっかりと現在とつながっていることを感じます。
しかし、その前提として、先生の若き日の苦難に満ちた経験を振り返らねばなりません。
1888年(明治21年)、先生は17歳で大分の師範学校に入学し、教員としての人生を目指しました。しかし、同じ年の春、洗礼を受け、クリスチャンとなっていた先生は、その強い信仰によって事件を引き起こします。招魂社という戦死者を祭る神社の参拝を拒否し、一人だけ、それに参加しなかったのです。その結果、先生は退学を余儀なくされます。それは、あの有名な、内村鑑三の第1高等中学校における不敬事件と学校からの追放のおよそ2年前の出来事でした。
この後、先生は長崎に移り、学院創設者の一人、ヘンリー・スタウト先生によって発展した男子校東山学院に入学、神学部に学び、梅香崎女学校校長を経て、初代学院長となられます。内村鑑三と並ぶほどの先生の強い信仰と、それによる受難こそが学院の礎となったこと、聖書でいう「隅の親石(かしらいし)」となったことは、今ここで、改めて記憶されるべきことであります。
もう一人は、広津藤吉先生の後を受け、第二代学院長となられた福田八十楠先生です。1945年(昭和20年)6月30日、福田先生は学院長に就任しますが、わずか2日後の7月2日、下関はアメリカ軍の空襲によって焼土と化し、梅光も記念館3教室と、院長宅のみを残して全焼しました。就任わずか2日後の出来事です。先生の落胆はいかばかりであったか、察するに余りあります。しかし、先生はすぐさま行動を起こします。
戦争が終わると、近くの下関丸山教会、下関カトリック教会を借りて授業を再開し、さらに陸軍の使っていた大畠(現在の東駅)の兵舎も借り受けました。翌年3月20日の第31回卒業式は、窓ガラスさえないバラックの校舎で、まだ寒い風の吹き抜ける中、全員起立したままで行われたのです。
後に丸山校舎が再建された後も、この大畠校地は幼稚園、続いて短大のキャンパスとなり、現在は大学生達の学びの場となっています。
すべては福田先生の強い信仰と、それにもとづく未来への希望と、学院とそこに学ぶものへの深い愛が成し遂げたわざであります。この後、マッケンジー先生、広津信二郎先生が学院長となり、学院の発展に尽くされました。マッケンジー先生は毎朝行われている礼拝の形を作り上げられた方として、また、幼稚園の初代園長としてその礎を築かれた方として知られています。しかし、何よりも日米開戦により6年にわたり、日本に帰れなかった時期に、将来の梅光のためにアメリカで献金を募る集会を続けられ、それが戦後の学院の復興に大きな力となったことは記憶にとどめられなければなりません。広津信二郎先生は申すまでもなく実に50年の長きにわたり、梅光を牽引して来られ、生涯のすべてを梅光に捧げられました。先生がおられなければ、短大、大学、大学院は存在しなかったに違いありません。東駅の大学キャンパスは下関市から都市景観賞をいただいていますが、その統一的なデザインの、美しいキャンパスは広津先生のご指導のもと建てられたものです。
時間の制約もあり、これ以上の先人のご紹介はできませんが、私たちは、今、ここで、信仰によって魂を養われるということがどのようなことであり、それによってどのようなことが行われ、それをよしとされた神が、どのような賜物を私たちに、私たちの思い以上に与えてくださるかを梅光の歴史を通してしっかりと心に刻みたいと思います。
これからの百年は、おそらく、さらに次々と新しいテクノロジーが開発され、グローバル化は加速し、新しい技術を身につけることなしには生きていけない時代となるでしょう。梅光もそれに対応できる学院づくりに励まねばなりません。
しかし、一方で、そうであればあるほど、人間に真の生きる力を与える神による魂の養いが、学院の日々の生活の中で成し遂げられているかを、真摯に点検し、それを実行せねばならないのです。
ここで、百年前に起こったもう一つの出来事をご紹介して、私のお話の結びとしたいと思います。
100年前に開学された学院の入学式は4月11日に行われ、授業開始は15日でした。実は、その5日後に、今日まで記憶されるに価する文化的なできごとがありました。
それは、4月20日に夏目漱石が、今日まで読みつがれている名作『こころ』を新聞に連載しはじめたことです。今、朝日新聞はそれを記念して、連載を紙上に再現していますが、このことは単なる偶然とは思われません。
大正時代は明治という破壊と再生の時代のあとに来た、表面的に見れば人々が比較的穏やかに近代文明、近代文化の中で過ごせるようになった時代でした。『こころ』の主人公の「私」は、東京帝国大学の学生という設定ですから、きっと、卒業後は順調に社会のリーダーの一人として活躍することが保証されていたことでしょう。しかし、作品には、なぜか「私」が、学校に行って将来のために学ぶことよりも、先生の所に行くことを喜びとしたこと、先生から人生について深く学びたいと考えたことが繰り返し語られています。そのひたむきな姿勢はかたくなに閉じていた先生のこころを開き、ついに先生は自らの死を前提として書いた一通の長い手紙を「私」に送ります。
先生の「私はこの手紙で私の人生で流した血をあなたに浴びせるのだ」という言葉には、自分の経験した人生の苦しみ、悩みを次世代の若者に伝え、それにより若き魂の糧として欲しいという先生の最後の希望が込められています。
作者漱石は日本の近代化は外発的で上滑りであると批判し、しかし、それでも涙をのんで上滑りにすべっていく他ない、と言いました。『こころ』一篇には、そのように時代の本質を見抜いた漱石からの、若き人々が人間の真実をたじろぐことなく見つめ、魂を深く耕して欲しいという強い願いが込められているのです。『こころ』はフィクションですが、梅光学院はまぎれもなく現実として、100年前に誕生しました。それは、以上述べた意味で、いわば時代の要請であったと言えるのではないでしょうか。
「光の子として歩みなさい」というスクールモットーには、神によって私たち一人一人が生きる力を与えられていることが約束されています。しかし、神からの光は、ただ単に私たちの道を照らし導くだけでなく、心の闇も、社会の闇も、世界の闇も照らし出します。それを見つめ、たじろぐことなく受け止めること。それが魂を養うということです。しかし私たちは、そのために『こころ』の主人公のように先生の家に通う必要はありません。毎日、礼拝を通じて聖書という神からの手紙を受け取っているからです。このことが、どれほどの恵みであるか、もう一度振り返ってみなければなりません。
神からのメッセージによって魂を養われた者に与えられる恵み。それは、神は一人一人の思いを越えて私たちを守り導かれるということです。人生の基準を「私」から「神」に移す時、どのような苦難の中にあろうと、世界は私たちの思いを遥かに越えた可能性を与えてくれます。梅光の百年の歴史とは、このような歴史に他なりません。
記録によれば、梅光では開学後の10年間で194名の若い魂が信仰に導かれています。くしくも、この4月、中学、高校、大学の7名の生徒・学生が受洗し、クリスチャンとなりました。もちろん、数を誇る必要はありません。梅光学院はこれまでそうであったように、これからも若き人々の魂を養い、真に生きる力を与える学院であり続けたいと思います。ご一緒に、信仰と希望と愛をもって、その道に歩み出してまいりましょう。
最後になりましたが、お手元にある梅光教育宣言について一言申し上げます。この宣言は開学100年を記念し、これからの学院運営の基本精神をまとめたものです。お目をお通しくださり、新しい百年に向けての歩みを共にしてくだされば、これに勝る喜びはありません。佐藤泰正先生がいつも言われるように「私学」は「志学」でなければなりません。梅光学院は小さな規模の学校ですが、この宣言に書かれてあるように高い志を持って、これからの百年を地域の方々と共に歩んで参りたいと思います。